東日本大震災から10ヶ月が経とうとしています。被災当初は日本中が躁状態でした。今はウツ状態に転じて疲労感一色です。被災地全体が疲弊しています。
私も95年の阪神・淡路大震災で家を失って大変な喪失感に襲われました。今回ボランティアとして被災地行きを決めたのですが、不眠・抑ウツ・妄想等の症状を抱え服薬中です。それでも目的は「ピア・サポート」「震災ネットワーク作り」「救援者の救援者」としました。
目的地は仙台で、旅立つ日が近づくにつれ、軽躁状態になりました。「何でも出来る」という万能感に支配されていました。
9月29日、仙台市内に入った時、河北新報社本社ビルの垂れ幕に「再生へ、心をひとつに」とありました。「がんばれ」「がんばろう」が溢れる中でその文字は新鮮でした。
初日は○市のWさん宅へ直行。Wさんは精神病院(今は精神科病院)に30年間、社会的入院を余儀なくされていました。モダンジャズが好きなWさんと曲を聴きながら秋の夜は更けていき就寝しました。
2日目はWさんと「宮精連」(宮城精神しょうがい者団体連絡会議)のYさんと会い、更に近くの「ピアサポートセンターそら」のKさんと会いました。Kさんとはまだ暑さの残る東京で「震災ネットワーク作りをしよう」と固い約束をした仲です。その再確認ができました。その後、同町内の「被災地障がい者センターみやぎ」へ。夕食3品を作り皆で食べました。日頃のヘルパー経験が活きてうれしかったです。「救援者の救援者」役も果たせました。
3日目は仙台から沿岸部を福島県境まで。ガレキが至る所に積まれメタンガスが溜まり火災が発生するとのこと。この日は仮設住宅の人々とパラソルカフェを楽しむ目的もありました。これまで関西系の「阪神・淡路」体験者の訪問も多く人々の心にどう響いたのか。私もその一人として余り相手にされなかった気がして今後の課題として残りました。一方で「仮設ツアー」をする団体が温泉付きでいそいそと大型バスで訪問し、バタバタと帰って行きました。
4日目は日曜日で休日。
最後の5日目は朝からミーティング。私は昼食(兼夕食)作り役に手を挙げ、3品作りました。「報告書」を作りながら、いろんな思いを残しながら10月3日、帰途に着きました。